第18回谷崎潤一郎研究会のお知らせ

第18回谷崎潤一郎研究会を以下の内容で開催します。

[日 時]2014年3月16日(日) 10:00〜16:30(開場09:30)

[会 場]高知県立文学館
   〒780-0850 高知市丸ノ内1丁目1-20
   http://kochi-bunkazaidan.or.jp/~bungaku/

[プログラム]
□午前の部 研究発表 
 
*司会:山口政幸
 大黒華「谷崎潤一郎「異端者の悲しみ」成立考」
 林茜茜「人工的な楽園─谷崎潤一郎『天鵞絨の夢』論」

□午後の部 特集「震災と文学─寺田寅彦と谷崎潤一郎─」
 
*司会:細川光洋
 田鎖数馬「関東大震災と文学─菊池寛・芥川龍之介・谷崎潤一郎─」
 千葉俊二「震災と文学」
 鈴木堯士「震災と寺田寅彦」

 (※発表要旨は次ページに掲載)

[発表要旨]
□午前の部:研究発表

大黒華「谷崎潤一郎「異端者の悲しみ」成立考」
本発表は、谷崎潤一郎の「異端者の悲しみ」を取り上げ、滝田樗陰旧蔵の自筆原稿と初出版との比較考察を行うものである。自筆原稿と初出版との間には本文の異同が多くあるので、その意味するところを、自筆原稿に目を通して谷崎に助言を与えたとされる、内務省警保局警保局長永田秀次郎との関わりにも言及しながら考察していきたい。また、文壇出世譚の体裁をとることによって主人公の悪行を正当化し、発売禁止を回避するという計算から、作品末尾の数行は付されたのではないかと解説されることもあるが、本発表においては前述の考察を踏まえて、それとは異なる考え方を提示したい。
まず、自筆原稿と初出版の比較によって、主に父に関する悪い印象や評価が緩和されていることを確認する。また自筆原稿の最終頁が存在しないので、作品末尾の数行を自筆原稿から確認することはできないものの、その一頁前の最後に「二行アケ」とあることから、おそらく自筆原稿の最終頁に、作品末尾の数行が付されていたのではないかと推測する。そのうえで、この自筆原稿が、永田が目を通す前のものである可能性が高いことを、永田の発言等にも触れながら説明する。また、その際、警保局長であると同時に俳人でもあった永田という人物の性質や性格が「異端者の悲しみ」発表に際して、どのように影響したのかということも合わせて見ていきたい。
ここまでの考察を踏まえて、この自筆原稿が、永田が目を通す前のものであるという仮定を元に論を進める。そうであるのならば、この末尾は谷崎自身によって付されたということになる。では、そのことは何を意味するのか。より定説に近い考え方は、永田が目を通す前に、谷崎自身が発禁を回避すべく末尾の数行を付したというものである。もうひとつ本発表にて提示したい考えは、発禁を恐れて付したというわけではなく、当時の谷崎自身の作家としての問題意識に基づいて末尾の数行を書いたというものである。その問題意識が何であったのかということを、昭和三十年の谷崎が自選全集においてこの末尾を削除したのは何故であるのかということと合わせて、新たに考えていきたい。(高知大学人文学部3年)

◆林茜茜「人工的な楽園─谷崎潤一郎『天鵞絨の夢』論」
一九一八年の中国旅行から帰ってきた後、谷崎潤一郎は中国を舞台にする作品を数多く創作した。一九一九年十一月から十二月まで「大阪朝日新聞」夕刊に掲載された『天鵞絨の夢』はそのうちの一つである。この作品は西湖の畔にある別荘の主人とその妾の女主人の歓楽的な生活ぶりを描いているが、今までの先行研究では、『天鵞絨の夢』を谷崎が幻想的な中国を描いた作品群の一つであると指摘するものがほとんどであり、単独で論じられることが極めて少なかった。
しかし、発表者の実地調査によって、『天鵞絨の夢』の登場人物や舞台設定が実在のモデルや場所を踏まえていることが明らかになった。その人物とは、サイラス・アーロン・ハードン(Silas Aaron Hardoon)というユダヤ人不動産業界の実力者であり、『天鵞絨の夢』は、彼のプライベート・ガーデンを作品の舞台としている。本発表ではまず谷崎の一九一八年の中国旅行を視野に入れながら、今までの先行研究で見過ごされてきた『天鵞絨の夢』における中国的な要素を浮き彫りにする。
その上で、同作の発表の一ヶ月前に、谷崎がボードレールの散文詩集の翻訳を発表していたことに注目したい(『解放』一九一九年一〇月、一九二〇年一月)。谷崎はまた、『天鵞絨の夢』の連載と並行して、ゴーチエの『クラリモンド』を芥川龍之介と共訳し発表している(『社会及国家』一九一九年一〇月、十一月、一九二〇年一月号)。ボードレールやゴーチエの作品の翻訳は、『天鵞絨の夢』にどのような影響を与えたのだろうか。以上の視点から、本発表では一九一九年前後の谷崎文学の実態を明らかにしてみたい。(早稲田大学大学院教育学研究科 博士後期課程)

□午後の部:特集「震災と文学─寺田寅彦と谷崎潤一郎─」
田鎖数馬「関東大震災と文学─菊池寛・芥川龍之介・谷崎潤一郎─」
周知の通り、関東大震災は、大正十二年九月一日に、関東地方南部を震源として発生した、マグニチュード7.9の大地震による災害で、死者・行方不明者10万人を超える、甚大な被害をもたらした。この関東大震災の衝撃は、当然ながら、当時の文壇にも及んでいる。この発表では、関東大震災が文学に何をもたらしたのかということを考察する手始めとして、菊池寛、芥川龍之介、谷崎潤一郎を取り上げて比較を行いたい。この三者を取り上げるのは、それぞれに全く異なる形で関東大震災を受け止めたからであり、かつ、その異なる受け止め方の中に、当時の彼らが目指そうとした文学の決して相容れることのない特質がよく窺われると考えられるからである。
この点をもう少し掘り下げていえば、菊池は、関東大震災後の絶望的な現実を前にして、「芸術」の存在意義に対して、以前にもまして強い疑問を持つようになった。そのことは、菊池が一般大衆に娯楽や慰安や道徳を提供することをもっぱらに目指した、非「芸術」的な「通俗小説」へと傾斜していくことを後押ししていった。それに対して、芥川は、関東大震災後の絶望的な現実と向き合い、その中からも詩的な表現世界を獲得していこうとした。そのことは、「詩的精神」を求め、「『話』らしい話のない小説」を追究しようとした後年の芥川の姿勢と繋がっている。一方、谷崎は、関東大震災による荒廃した現実を拒絶しながら、その現実の対極にある、谷崎の感性に調和する物語世界を求めていく。これは、「小説の筋」の面白さを、安易に読者受けばかりを狙った「通俗小説」とは異なる形で求めつつ、どこまでも自分なりの美的世界を完成させようとした谷崎の創作姿勢と結び付いている。
このことに付け加えると、芥川は、関東大震災を踏まえて「芸術」論を展開する際に、菊池の「芸術」論を念頭に置きながら、暗に批判しているし、関東大震災に対する芥川と谷崎の受け止め方の決定的な溝は、「小説の筋」論争として表面化している。その意味で、この三者の関東大震災に対する反応の相違を読み解くことは、三者の文学上の異なる立場を明確にしていく役割を果たしているといえる。こうした見通しに基づいて、関東大震災がこの三者にいかなる影響を及ぼしたのかを、具体的に考えていきたい。(高知大学准教授)

◆千葉俊二「震災と文学」
一七五五年十一月一日、ポルトガルの首都リスボンをマグニチュード八・五の巨大地震が襲い、新大陸からの富によって構築されたリスボンの街は壊滅的な被害を受けた。当時ジュネーブにいたヴォルテールはこの地震に動かされて「リスボンの災厄に寄せる詩」を書いたが、それを読んだルソーは一七五六年八月十八日付のヴォルテールへ宛てた長い手紙を書き、ヴォルテールの詩篇へストレートな不満を述べた。そのルソーへの反論として書かれたのがヴォルテールの「カンディード」であるが、大正文壇の旗手芥川龍之介がこの「カンディード」に決定的な影響を被ったことは遺稿「或阿呆の一生」に記されているとおりである。一九二三(大正十二)年九月一日に起きた関東大震災は、死者・行方不明者十万を超える近代日本における災害史上最大級のものであり、この地震に関しては谷崎潤一郎、寺田寅彦をはじめ、田山花袋や芥川龍之介など実に多くの文学者の言及がある。それらを参照しながら、この発表では、芥川龍之介の文学に及ぼした関東大震災の意味を、リスボン地震との比較、および芥川文学への「カンディード」の影響の内実を検証することによって探りたいと考えている。(早稲田大学教授)

◆鈴木堯士「震災と寺田寅彦」
寺田寅彦(1878−1935)は一般に「物理学者」といわれているが、彼の論文の内容からは「地球科学者」と呼んだほうが正しいと思う。
寅彦は大正12(1923)年9月1日に上野の二科会展を鑑賞した後、近くの喫茶店で紅茶を飲んでいた時、関東大震災に遭遇した。外へ出て空を覆う火山噴火のような雲を見て、寅彦は大災害を予感。旧被服廠では3万8千人が焼死。寅彦は1ヶ月間、現地調査と聞き取り調査をし「火災旋風」を突き止めた。
寅彦は「日本の国土全体が一つの吊橋の上にかかっているようなもので、しかも、その吊橋の鋼索が明日にも断たれるかもしれない」《災難雑考:1935年》と警告していた。東日本大震災(2011年3月11日)は、寅彦の予言通り、まさに吊り橋の鋼索(ワイヤロープ)が切れたのである。
寅彦は『防災』という言葉の生みの親であり、防災については生涯に渡って口を酸っぱくして訴え続けた。
寅彦の注目すべき発言を二、三紹介しておく。
「もし自然の歴史が繰返すとすれば二十世紀の終りか二十一世紀の初め頃までにはもう一度関東大地震が襲来するはずである。/困った事にはその頃の東京市民はもう大地震の事などは綺麗に忘れてしまっていて、大地震が来た時の災害を助長するようなあらゆる危険な施設を累積していることであろう」《銀座アルプス:1933年》。
「津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである」《津浪と人間:1933年》。
「地震の強さには自ずからな最大限が存在するだろう。/そうだとすれば、この最大限の地震に対して安全なるべき施設をさえしておけば地震というものはあっても恐ろしいものではなくなるはずである」《地震雑感:1924年》
と述べ、特別に大きな安全施設を平時に用意する必要性を強調していた。
講演の中で、寅彦の「プレート論」「防災の難しさ」「減災」「《忘災》への訓戒」「災害進化論」「震災健忘症」「地震津波教育」などについても触れてみたいと思う。
【参考文献】
鈴木堯士:寺田寅彦の地球観(2003)、高知新聞社.
鈴木堯士:寺田寅彦と地球科学(その2)−土佐湾での動く海底の研究から−(2006)、地球科学.
鈴木堯士:寺田寅彦の防災論(2008)、槲.
鈴木堯士:寺田寅彦の地震津波論(2011)、高知新聞連載.
(高知大学名誉教授)
 



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