「谷崎作品と川田順、そして佐佐木信綱 ―『羮』『痴人の愛』から戦後作品を中心に―」の発表を終えて

川田順著『葵の女―川田順自敍傳』に興味を持ったきっかけは『夢の浮橋』だったが、テーマを川田順にするにしても、対象を『夢の浮橋』に絞ればまだもう少しまとまった話になったかもしれない。
発表では、川田順の父である川田甕江と、谷崎の父の長兄の岳父である小中村清矩と、佐々木弘綱・佐佐木信綱父子の交流から、川田順が谷崎作品に与えた影響について考察した。それにあたって系図を作ったが、思いのほか大きなものになり、時間がなくなってしまった。ようやく何とかまとめた後、それをじっくりと見る間もなく、文章を作り始めてしまったのが失敗の始まりだった。あとでたつみ先生にもご指導いただいたが、資料は系図をA3で印刷したもの1枚で、それを使って説明した方が良かったと思う。
質疑応答の時に出た『夢の浮橋』について少し補足しておきたい。糺は「糺の父」とそっくりだが、母には全く似ていないという。こういう親子関係は、谷崎周辺にもある。その代表例が、『蘆刈』に関わりのある池長孟氏とその養父(高見沢たか子著『金箔の港―コレクター池長孟の生涯』参照)や武林無想庵とその養父(武林無想庵は、実父である三島常磐よりも養父によく似ている。絵葉書の世界 File#016武林写真館 http://fog.freespace.jp/layla/close_up02.html#016参照、養父の無想庵に対する態度については山本夏彦著『無想庵物語』参照)だ。「絵葉書の世界」には、無想庵の養父・実父に至るまでの師弟関係も書かれていて、そのトップに木津幸吉という人がいるのも興味深い。「はこだて人物誌」というサイトの木津幸吉のページを読むと、さらに興味深い。(http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/kizu_ko.htm)。
『幼少時代』を読むと、どうも谷崎が父の連れ子のように思えてしまうのも、作品のモデルにすべき人物像に合わせようとしたことが背景にあるのかもしれない。『夢の浮橋』の場合は、今現在の私の仮説としては、「糺の父」は糺の本当の父かもしれないが、「糺の父」の兄である加藤医師の子として届けられ、「糺の父」の養子になっていたのではないかと考える。ただし、手記を書いた糺が一人とは限らない。糺は複数いる、というところか。
発表後、六興出版刊『谷崎潤一郎文庫第7巻』付録の月報に石川悌二著『近代作家の基礎的研究』という本の話が書かれているのを見つけた。鷗外、漱石、紅葉、一葉、そして最後に谷崎が登場する。読んでみたところ、鷗外の長男である於菟さんの出生について、興味深い記述を見つけた。於菟さんの戸籍上の出生年が、発表されている於菟さんの出生年と比べて1年早いということだ。このことは、『夢の浮橋』の中で、無いことにされた1年(表記のしかたで読者に誤解させ、それを植物の移り変わりを書くことで修正するトリック)があり、その年に澤子が妊娠しているらしい記述があることと符合する(それ以降、糺の年齢は記されず、大学何年という記述になる)。
さらに、森於菟著『父親としての森鴎外』によって、祖母である鷗外の母峰子さんと静岡の実母の実家に行った時に、美代子さんという異父妹に会ったことを知った。これは『羹』と繋がる。さらに、峰子さんと於菟さんが鷗外の祖父母のお墓にお参りした時の情景が、『春琴抄』の冒頭と非常によく重なる。於菟さんと谷崎の年齢が近いことも知った。
次の漱石についても、その幼名や家庭環境が、谷崎の父の長兄の岳父である小中村清矩と酷似しているところに目が留まった。さらに漱石の兄に和三郎という人がいることも。
『幼少時代』によると谷崎の父の幼名は「和助」なのだが、『小中村清矩日記』の記述を読むと、どうも和三郎らしい。さらに、二代目久右衛門の名が「和助」であることが、はっきりと書かれている。石川悌二著『近代作家の基礎的研究』での改写された戸籍での二代目久右衛門の出生日が2つあることと併せて非常に興味深い。さらに、漱石の兄の和三郎と、『幼少時代』に描かれる二代目久右衛門のキャラクターに、何やら共通点があるようだ。谷崎の伯父、久兵衛の、まるで菊池 覚著『恩讐の彼方に』の主人公のような幼名と併せて、『幼少時代』についてはさらなる研究の必要性を感じる。
リレーショナルデータベースでは、一意のキーを主キーとして、複数の表を関連付けるが、谷崎は一意ではない「名前」を主キーとして複数の一族をつなげて作品を書いていたのではないかと思う。当然、同じ名前の別人で繋げてしまうことが起こる。それを谷崎は活用していたのではないか。この主キーを、谷崎は自らの作品中で「結び玉」と書いている(『アヴェ・マリア』『猫と庄造と二人のをんな』参照)。命の綱紐を亀甲や総角(あげまき)の形に結んだ結び玉。代表的な名前は「光子」や「初子」だが、その他にもいくつか代表的な結び玉を見つけることができる。 たとえば「徳太郎」ならば、尾崎紅葉(本名徳太郎)、永見徳太郎、菊原琴治(本名布原徳太郎)らがいる。『細雪』や『夢の浮橋』では「おかね」さんが活躍するが、川田順の母、無想庵の養母がおかねさんだ。発表の時に配布した系図の、糺のわかりやすいモデルの周辺にも「周子(かねこ)」さんがいる。他の結び玉としては、「貞愛」「いえやす」「えつこ」「さちこ」「きみこ」「ちよこ」「せい」「とみこ」「しげこ」等が浮かぶ。
谷崎が、池長孟氏が淀川長治氏の姉である富子さんと暮らそうと建てた豪邸に、新妻を連れて行くと手紙に書いたのも、名前が同じで異なる人物をつなげる操作なのだろう。
後で改めて系図を眺めてみたところ、一条忠香という人物に目が留まった。その養女に千代という人がいる。この人は、徳川慶喜に輿入れするはずだったが、疱瘡だか天然痘だかになってしまい辞退した。この悲劇については、蜂須賀年子著『大名華族』の冒頭に書かれていた。『春琴抄』との関連が強くうかがわれるお話だが、自伝の執筆にあたっては、川田順が勧めたと思われる。蜂須賀年子さんは、蜂須賀正韶と、慶喜の娘である筆子さんとの間に生まれた。やはり慶喜の娘である「葵の女」国子さんが川田順に会いに来るときに、姪であるこの人を連れてきたりしている。年子さんは、渡辺 明さんの兄である津山松平家の康春さんに嫁ぎ、その後離婚した。つまり、松子夫人の妹である重子さんとは一時(だいたい2年間くらいか)義理の姉妹だった。
その他にも、鷗外と賀古鶴所と佐佐木信綱が親しかったこと、鷗外の『舞姫』が徳富蘇峰(姉に初子さんや光子さんがいる。光子さんの夫は河田氏。)の『国民之友』誌上に発表されたこと。蘇峰と同じく出身地が熊本の小中村清矩の女婿だった池辺義象について、鷗外が『高瀬舟縁起』で触れていることを知り、明治の文豪たちが、ある一つのつながりに集約していくのではないかという仮説が浮かんできた。これらのつながりについては、本居宣長の『古事記伝』や小中村清矩らが編纂に携わった『古事類苑』、折口信夫作品等も読みながら、今後も継続して調べていきたいと思っている。拙い発表と同様、またしても雑多に並べてしまったが、ここに挙げた何かが少しでもお役に立ち、発表の機会を与えてくださった皆様に対するお礼になればありがたいと思っている。【木龍美代子】




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