「「卍」―女学生言葉の使用と人物像の変遷について」を終えて

「卍」はよく知られている通り、初出と初刊の間に大きな異同がある。最初は標準語の形で発表がされたが、次第に会話文の中に「関西弁風」の言葉が混じるようになる。最後には会話文も、柿内園子による「語り」の部分も「関西弁風」の言葉で統一されるようになる。そして初刊『卍』では、当初標準語で書かれた部分も全て「関西弁風」の言葉に書き直されて出版されることになる。
今回の発表では初出の「卍」を取り上げ、標準語で書かれた部分について使用されている「女学生言葉」というものについて確認し、初出「卍」の会話文に「関西弁風」の言葉が使用された途端、柿内園子の「語り」から、「女学生 言葉」が一気に排除されたという現象に対して、提示と考察を行った。
「〜のよ」、「〜のね」といった表現が多用される「女学生言葉」は、「痴人の愛」でもナオミによって使用されており、ここでは河合譲治による「語り」の中に、ナオミの言葉が浮き上がる形になっている。
しかし「卍」では、柿内園子の「女学生言葉」による「語り」の中に、徳光光子の「女学生言葉」による会話文が埋没する形になってしまっている。この不具合に谷崎が気づいた時に、「卍」は、標準語による「語り」の中に、「関西弁風」の言葉による「語り」が混在するという形態に変化したのではないかという可能性について述べさせていただいた。
会場では多くの方にご意見と示唆をいただいた。特に、「関西弁 風」の言葉に変化した後の初出「卍」にも、標準語ではない、「関西弁」の「女学生言葉」が使用されているのではないかというご指摘には多くを教えられた。
その後、初出「卍」の、おそらく「関西弁」による「女学生言葉」とおぼしき部分について、初刊「卍」と比較をしてみたが、ここでは、関西弁風の言葉について、数多くの異同が存在していることが確認できた。
今後の大きな課題として、「関西弁」による「女学生言葉」についての資料を確認し、初出「卍」が「関西弁風」の言葉に変化した後も「女学生言葉」そのものが、継続して
使われたかどうかということを検証して、更に論を深化させていかねばならないと考えた。
大学を離れ、研究という分野とは違う職種についていると、 どうしてもこういった、研究発表をするという機会からは縁遠くなってしまう。今回、拙いながららもこうした機会をいただいたのはたいへんありがたく、谷崎潤一郎研究会にはいくら感謝してもし足りないというのが現在の気持ちである。
このご恩に報いるために、今回の発表をさらに突き詰め、いつかは論文という形にまとめられるように今後も努力していきたい。様々にご意見くださった皆様、そして激励くださった方々、本当にありがとうございました。【福田博則】




「谷崎潤一郎『細雪』論―鶴子を視座として―」の発表を終えて

発表では、蒔岡四姉妹の長女でありながら、作中での影が薄い鶴子に焦点を当て、本作における鶴子の役割を幸子、雪子、妙子の描かれ方と比較し考察した。本作の作中時間(1936年〜1941年)において、健康的な子どもを生み育てるためには「若さ」や「健康さ」を備えた女性が理想的であると考えられていた。鶴子は実年齢よりも「若く」見え、六人の子どもを生み育てながらも衰えることのない「健康」的な肉体を所有している。三人の妹たちは「若さ」という美点を有しながらも、「健康さ」からはほど遠い人物として描かれている。そして、物語の進行とともに三人の妹たちはそれぞれの幸福を手にしていくが、理想的な女性として描かれた鶴子の生活は衰退の一途をたどることとなる。その原因として、時代の要請、周囲の環境に影響され自らの生き方を変化させていく鶴子の弱さを指摘した。幸子、雪子、妙子の振る舞いは時に時代にそぐわず、他人や家族の迷惑を省みないものである。しかし、その強さがあったからこそ彼女たちは鶴子のような境涯に陥ることはないのだと結論付けた。

質疑応答や懇親会では、「若さは、谷崎作品において女性の美しさを形容するものとして繰り返し登場するため特別視することはできないのではないか」、「四姉妹が持って生まれた素質としての若さの意味に注目すべきではないか」、「鶴子と三人の妹を対比させるのではなく、母親似である鶴子、雪子と父親似である幸子、妙子とを対比させてみてはどうか」、「作中人物同士のやりとり(お互いの生き方に対しどのような考えを抱いているか)に注目してみてはどうか」、「本当に鶴子の未来は暗いのか」など数多くのご指摘をいただきました。本作の作品分析を始めた時は、鶴子を評価したい(肯定的に解釈したい)と考えていましたが上手くまとめることができず、今回のような結論に至りました。今回いただいたご意見、ご指摘をもとにもう一度鶴子について考察していきたいと思います。

最後になりますが、今回はじめて本研究会に参加させていただきとても楽しく有意義な時間を会員の皆様と過ごせたことを心より感謝いたします。本研究会は今回が最後となりますが、また新たな機会、場所で谷崎作品についてお話できることと信じております。本当にありがとうございました。【小林珠子】




第21回谷崎潤一郎研究会のお知らせ

第21回谷崎潤一郎研究会を以下の内容で開催します。
[日 時]2017年3月26日(日) 13:00〜17:30(開場12:30)
[会 場]愛知淑徳大学 星ヶ丘キャンパス  1号館2階 12A教室
〒464-8671 名古屋市千種区桜が丘23
〈アクセス〉市営地下鉄東山線「星ヶ丘」下車 3番出口から徒歩3分
http://www.aasa.ac.jp/guidance/campus_guide/map.html

 

[プログラム]
□研究発表(13:00〜17:00)
*司会:佐藤淳一
小林珠子「谷崎潤一郎『細雪』論―鶴子を視座として―」
平田桂子「『春琴抄』のカラクリ2―解釈を促す装置としてのテクスト」
市川元昭「谷崎文学出発期の文体論」
福田博則「「卍」―女学生言葉の使用と人物像の変遷について」

 

□総会(17:00〜17:30)

(※発表要旨・内容は次ページに掲載)




第20回谷崎潤一郎研究会のお知らせ

第20回谷崎潤一郎研究会を以下の内容で開催します。
[日 時]2016年3月27日(日) 13:00〜17:00(開場12:30)
[会 場]県立神奈川近代文学館 2階ホール
〒231-0862 横浜市中区山手町110(港の見える丘公園内)
http://www.kanabun.or.jp

[プログラム]
□研究発表
*司会:明里千章
柴田希「文芸映画のなかの谷崎文学―「春琴抄」を例に─」
生方智子「明治四十年代の青年文化―第二次「新思潮」と夏目漱石『彼岸過迄』における青年像―」

□講演
笹沼東一「谷崎潤一郎と祖父笹沼源之助」
(※発表要旨・内容は次ページに掲載)



「谷崎潤一郎と祖父水野鋭三郎と父森田勝一の話」

◆2015年4月4日に行われた第19回谷崎潤一郎研究会での特別インタビューを受けて、当日のゲスト、森田チヱコさんがご寄稿くださいました。

「谷崎潤一郎と祖父水野鋭三郎と父森田勝一の話」 
――第19回 谷崎潤一郎研究会でのインタビューを終えて


明治半ばから昭和にかけて祖父水野鋭三郎(1864-1941)は大阪堂島に住んでいた。その頃、偶然にも文豪といわれた作家谷崎潤一郎と松子夫人のロマンスに関わることになった。それは鋭三郎の甥、卜部詮三氏と松子夫人の長姉森田朝子様が結婚されて森田家を継いだことによる。
以来、両家の交流は祖父、父、私と三世代に及び、谷崎夫妻のエピソードが残されている。今も、我が家には谷崎夫妻の書状が残され、その文面から当時の事情が読み取れる。どれも興味深い一級の資料であるが、明治、大正、昭和にわたる大文豪、谷崎に関する記述は素人に容易にできるものではなく、長くそのまま放置していた。
書簡は父勝一が所持していたが、六通が全てであったかは定かでない。つい最近も、岡山県井原市の伯母宅から二通の額入り書状が報告されている。これらは一連のものであり、谷崎が阪神芦屋の「打出下宮塚の家」に松子夫人と結婚前後に居住された時のものである。松子夫人が晩年にこの書簡の存在をご存知になり、大層お気遣いであった。個人の「私信」である書状を不如意に扱えば、関係者に不愉快、迷惑になるので、今日まで極力公開を避けてきた。
その後、関係する近親者の多くが他界され、またこの「谷崎没後五十年記念」の年を契機に、放置すると闇に埋没するであろうこの一級文献を学問的に正しく解明する必要性を再認識したことである。幸いこの度、谷崎文学研究家、早稲田大学千葉教授のご尽力により「新資料 谷崎潤一郎・松子、水野鋭三郎宛ほか書簡六通――森田チヱコさんに聞く 千葉俊二」(『文藝別冊 谷崎潤一郎 没後五十年、文学の奇蹟』河出書房新社、二〇一五年二月)の一記事となった。お陰で流麗で達筆な松子夫人の書状も見事に読み解かれ、不明であった送付年月日もほぼ解明され、文脈の意味も他との照合で明らかになり、文豪谷崎をめぐる当時の諸事情がより鮮明となった。
父勝一が実母の「森田」を継ぎ、私は水野姓でないが、今も私の本籍、墓所も祖父や父と同様であり、親戚内では水野鋭三郎の孫として扱われている。私は昭和十四年生(現七十五歳)にて祖父鋭三郎は私が二歳の昭和十六年に、また祖母なをは昭和十八年に他界したので祖父母の記憶は薄く、祖父と谷崎夫妻のエピソードは両親や伯母の話によっている。本来、鋭三郎は谷崎夫妻の「黒子役」であったので、これらの話はあまり表面出てないことが故人らへの礼儀であるのかもしれない。



第19回谷崎潤一郎研究会のお知らせ

第19回谷崎潤一郎研究会を以下の内容で開催します。

[日 時]2015年4月4日(土) 14:00〜17:40(開場13:30)

[会 場]県立神奈川近代文学館 2階ホール
   〒231-0862 横浜市中区山手町110(港の見える丘公園内)
   http://www.kanabun.or.jp

[プログラム]
□研究発表 
 
*司会:明里千章
 グレゴリー・ケズナジャット「「メルティング・ポット」のあり方─谷崎潤一郎「魔術師」論─」
 山口政幸「谷崎潤一郎と中国体験」


□特別インタビュー
 「森田チヱコ氏に聞く」
  
*聞き手:千葉俊二
 (※発表要旨・内容は次ページに掲載)




「震災と寺田寅彦」の発表を終えて

今回の発表では、前半は寺田寅彦の生い立ち・業績について紹介し、後半は主として彼が随筆の中で、地震・津波による震災に対する「防災」・「減災」問題をいかに真剣に考え、多くの具体的な提言を行ったかを述べた。
寅彦の科学的業績は、晩年の昭和期に入って論文数が急増し、現代でも十分国際的に通用するものが多いことを指摘した。特に寅彦の論文内容が圧倒的に「地球科学」に関するもので占められ、物理学的論文は総論文数(224編)のうち五分の一程度であり、寅彦は「地球科学者」と呼ぶのが相応しいことを強調した。
寅彦の論文内容は、時代を追って調べていくと、大正12年9月1日の関東大震災を境に大きく変化した。震災前は磁化作用、音響学、振動学など純粋物理学的な内容のものがほとんどであった。しかし震災後は地殻変動・砂層実験・火山学・日本海拡大説や地震学関連の論文へとシフトした。彼の随筆についても関東大震災前後で同じような変化が認められる。関東大震災に遭遇したことで寅彦の人生観が大きく変化したことは紛れもない事実だと思う。
今回の発表ではX線結晶学、椿花の落下と地震発生回数の相関、金平糖(ゆらぎ=統計的異同)の角の数やその成因についても述べた。さらに、随筆には一切記載がない寅彦の「プレート論(?)」の論文紹介も行った。発表時間が限られていたため、科学者として彼の名を不動のものとした疑似周期性、アポトーシス(生物の細胞死)、カオス、フラクタル、地殻変動論、温泉・石油の成因論、複雑系の科学、動物のサイズと寿命などの興味深い論文や随筆の内容を紹介できなかったことは残念であった。
発表の後半は、災害・防災に関する寅彦の随筆の内容を説明した(関東大震災に関連するものが最も多い)。「防災」という言葉の生みの親は寺田寅彦だと言われている。災害進化論・震災健忘症・《忘災》(私の造語)への訓戒・防災の難しさ・減災・正当に怖がる方策・防災教育などについて、寅彦の言葉を引用しながら解説した。
寅彦は多くの随筆の中で、口を酸っぱくして過去の震災の記憶を忘れず対策をしておくように言い続け、防災・減災の手だてや施策を強い口調で迫っていた。これらの重要な提言にもかかわらず、一向にそれらの働き掛けの効果が見えてこなかった。晩年になっていささか疲れてきたのか、その論調は、よりシニカルになっていった。《いくら建設的な提言をしても、政府も国民も聞く耳を持たないように見える。ならば、自然災害は来るべくして来るのだから災難を被っても仕方ない、それが自然淘汰というものかもしれない》と、寅彦はやや投げやり的な口調になっていったのである。
このように寺田寅彦が晩年に抱いた「震災対策」に対する絶望感はわからないでもない。しかし、表には形として現われていないかもしれないが、寅彦の具体的な防災・減災論は現代に生かされ、有効に働いていることは間違いない。3年前に起きた東日本大震災でも、もし寅彦の数多くの防災提言がなかったら災害はさらに拡大していた可能性は十分考えられる。さらに来るべき南海トラフ大地震の減災社会作りへ、寅彦随筆が空文にはならず、大きな指針・参考になることを信じて疑わない。
今回の「第18回谷崎潤一郎研究会」では、門外漢として寺田寅彦について発表の機会を与えていただいた。千葉俊二氏・明里千章氏・山口政幸氏・細川光洋氏らと親しくお話しすることができたことを嬉しく思い、感謝しています。【鈴木堯士】



「関東大震災と文学―芥川龍之介と谷崎潤一郎」の発表を終えて

今回の発表では、関東大震災を取り込んだ芥川と谷崎の作品に着目しながら、その描き方の相違について考えてみた。具体的にいえば、芥川が、関東大震災後の悲惨な現実を直視し、その中にも詩的な光景があるとして、その光景を進んで描き出そうとしたのに対して、谷崎が、地震後の悲惨極まりない現実を殆ど描き出そうとはせず(大地震に襲われて逃げ延びるまでの実際の体験を随筆で書くことはあるけれども)に、むしろ、その現実の対極にある世界を描き出そうとしていた、ということを述べた。その上で、こうした相違には、大枠においてではあるが、「小説の筋」論争の対立と重なるところがあると指摘した。
発表の後、様々なご意見をいただいた。そのうちの二つをここで紹介したい。まず、発表では、芥川が、「大震に際せる感想」の中で、関東大震災後の悲惨な現実に直面しても、「否定精神の奴隷となる勿れ」と言い切っていたにもかかわらず、実際には、そのような強さを持っていなかったのではないかということを述べたのであるが、「或阿呆の一生」の一節を、そう述べるための論拠として使用してしまった。そのことに対する批判があった。「或阿呆の一生」は、敗北者芥川の自己像を強調する作品であるので、論拠として使用するのは必ずしも適切ではないのではないかというご意見である。このご意見は、厳密にいえば、確かにその通りであると思われる。「或阿呆の一生」とは別に、論拠となるような材料を探して、補っていく必要があると感じた。また、谷崎は、エッセーの中で、関東大震災によって自分の故郷が失われたので、悲しく思うと書いているのであるが、その一方で、関東大地震が発生した時、乱脈を極めていた当時の東京が破壊され、本当の近代都市がここから新たに誕生するはずであるので、そのことを嬉しく思うとも書いている。そのため、後者の谷崎の感想に着目するならば、そもそも、谷崎は関東大震災をむしろ歓迎したのであり、関東大震災に大した衝撃を受けなかったのではないか、という指摘をいただいた。この指摘は、換言すれば、谷崎は、関東大震災後の悲惨極まりない現実に呑み込まれないように意識的に目を閉ざしたのではなく、その現実に、初めから他人事として無関心であったのというものである。確かに、その可能性も存在するだろう。今回の発表では、その可能性に言及しなかったので、その点、不十分であったのかも知れない。ただ、谷崎が実際に無関心であったのか否かという点はひとまずおくとしても、谷崎がその悲惨な現実を作品の中にあまり描こうしなかったという点は、やはり留意すべき問題として指摘し得る。関東大震災後に関西に移住するとはいえ、地震発生の後、横浜にいる妻子のもとへ向かうまでの間に、関東大震災後の悲惨な光景を見てきたはずの谷崎が、あるいは、仮にその悲惨な光景を見ていなくとも、関東大震災の深刻な被害を容易に想像し得たはずの谷崎が、その悲惨な現実を殆ど書かず、むしろ、その現実を否定するところで成立するような世界を書こうとしていたという点に、やはり、芥川とは対照的な作家としての姿勢を見ることができるということはいえるのではないかと考えている。
千葉俊二氏の発表でも紹介されていたが、当時の多くの作家たちは、関東大震災はさしたる影響を文壇に及ぼさなかったと言い切っていた。しかしながら、たとえ当の作家に十分に意識されていなくとも、関東大震災が、作家のこれまでの文学的傾向を深化させたり、あるいは、変化させたりということが、実際にはあったのではないだろうか。何にどう影響されたのかということは、その時代に実際に生きる人間には往々にして見えにくいものである。関東大震災が文学に何をもたらしたのかという問題は、関東大震災から90年の時間が経過し、また、東日本大震災を経験した今だからこそ、改めて考えてみる必要があるだろう。今回は、不十分であったけれど、そうした問題意識に基づいて発表させていただいた。
最後に、谷崎潤一郎研究会を高知で開催していただいたことに、心からの感謝を申し上げたい。私にとって大きな刺激になったことはいうまでもないが、それだけではなく、研究会に参加した高知大学の学生の目の色が明らかに変わった。研究会や学会に参加し、多くの人と意見交換することによって初めて分かることがあるということを、頭では理解していたのであるが、今回改めて痛感した。【田鎖数馬】



第18回谷崎潤一郎研究会のお知らせ

第18回谷崎潤一郎研究会を以下の内容で開催します。

[日 時]2014年3月16日(日) 10:00〜16:30(開場09:30)

[会 場]高知県立文学館
   〒780-0850 高知市丸ノ内1丁目1-20
   http://kochi-bunkazaidan.or.jp/~bungaku/

[プログラム]
□午前の部 研究発表 
 
*司会:山口政幸
 大黒華「谷崎潤一郎「異端者の悲しみ」成立考」
 林茜茜「人工的な楽園─谷崎潤一郎『天鵞絨の夢』論」

□午後の部 特集「震災と文学─寺田寅彦と谷崎潤一郎─」
 
*司会:細川光洋
 田鎖数馬「関東大震災と文学─菊池寛・芥川龍之介・谷崎潤一郎─」
 千葉俊二「震災と文学」
 鈴木堯士「震災と寺田寅彦」

 (※発表要旨は次ページに掲載)




「谷崎作品と川田順、そして佐佐木信綱 ―『羮』『痴人の愛』から戦後作品を中心に―」の発表を終えて

川田順著『葵の女―川田順自敍傳』に興味を持ったきっかけは『夢の浮橋』だったが、テーマを川田順にするにしても、対象を『夢の浮橋』に絞ればまだもう少しまとまった話になったかもしれない。
発表では、川田順の父である川田甕江と、谷崎の父の長兄の岳父である小中村清矩と、佐々木弘綱・佐佐木信綱父子の交流から、川田順が谷崎作品に与えた影響について考察した。それにあたって系図を作ったが、思いのほか大きなものになり、時間がなくなってしまった。ようやく何とかまとめた後、それをじっくりと見る間もなく、文章を作り始めてしまったのが失敗の始まりだった。あとでたつみ先生にもご指導いただいたが、資料は系図をA3で印刷したもの1枚で、それを使って説明した方が良かったと思う。
質疑応答の時に出た『夢の浮橋』について少し補足しておきたい。糺は「糺の父」とそっくりだが、母には全く似ていないという。こういう親子関係は、谷崎周辺にもある。その代表例が、『蘆刈』に関わりのある池長孟氏とその養父(高見沢たか子著『金箔の港―コレクター池長孟の生涯』参照)や武林無想庵とその養父(武林無想庵は、実父である三島常磐よりも養父によく似ている。絵葉書の世界 File#016武林写真館 http://fog.freespace.jp/layla/close_up02.html#016参照、養父の無想庵に対する態度については山本夏彦著『無想庵物語』参照)だ。「絵葉書の世界」には、無想庵の養父・実父に至るまでの師弟関係も書かれていて、そのトップに木津幸吉という人がいるのも興味深い。「はこだて人物誌」というサイトの木津幸吉のページを読むと、さらに興味深い。(http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/kizu_ko.htm)。
『幼少時代』を読むと、どうも谷崎が父の連れ子のように思えてしまうのも、作品のモデルにすべき人物像に合わせようとしたことが背景にあるのかもしれない。『夢の浮橋』の場合は、今現在の私の仮説としては、「糺の父」は糺の本当の父かもしれないが、「糺の父」の兄である加藤医師の子として届けられ、「糺の父」の養子になっていたのではないかと考える。ただし、手記を書いた糺が一人とは限らない。糺は複数いる、というところか。
発表後、六興出版刊『谷崎潤一郎文庫第7巻』付録の月報に石川悌二著『近代作家の基礎的研究』という本の話が書かれているのを見つけた。鷗外、漱石、紅葉、一葉、そして最後に谷崎が登場する。読んでみたところ、鷗外の長男である於菟さんの出生について、興味深い記述を見つけた。於菟さんの戸籍上の出生年が、発表されている於菟さんの出生年と比べて1年早いということだ。このことは、『夢の浮橋』の中で、無いことにされた1年(表記のしかたで読者に誤解させ、それを植物の移り変わりを書くことで修正するトリック)があり、その年に澤子が妊娠しているらしい記述があることと符合する(それ以降、糺の年齢は記されず、大学何年という記述になる)。
さらに、森於菟著『父親としての森鴎外』によって、祖母である鷗外の母峰子さんと静岡の実母の実家に行った時に、美代子さんという異父妹に会ったことを知った。これは『羹』と繋がる。さらに、峰子さんと於菟さんが鷗外の祖父母のお墓にお参りした時の情景が、『春琴抄』の冒頭と非常によく重なる。於菟さんと谷崎の年齢が近いことも知った。
次の漱石についても、その幼名や家庭環境が、谷崎の父の長兄の岳父である小中村清矩と酷似しているところに目が留まった。さらに漱石の兄に和三郎という人がいることも。
『幼少時代』によると谷崎の父の幼名は「和助」なのだが、『小中村清矩日記』の記述を読むと、どうも和三郎らしい。さらに、二代目久右衛門の名が「和助」であることが、はっきりと書かれている。石川悌二著『近代作家の基礎的研究』での改写された戸籍での二代目久右衛門の出生日が2つあることと併せて非常に興味深い。さらに、漱石の兄の和三郎と、『幼少時代』に描かれる二代目久右衛門のキャラクターに、何やら共通点があるようだ。谷崎の伯父、久兵衛の、まるで菊池 覚著『恩讐の彼方に』の主人公のような幼名と併せて、『幼少時代』についてはさらなる研究の必要性を感じる。
リレーショナルデータベースでは、一意のキーを主キーとして、複数の表を関連付けるが、谷崎は一意ではない「名前」を主キーとして複数の一族をつなげて作品を書いていたのではないかと思う。当然、同じ名前の別人で繋げてしまうことが起こる。それを谷崎は活用していたのではないか。この主キーを、谷崎は自らの作品中で「結び玉」と書いている(『アヴェ・マリア』『猫と庄造と二人のをんな』参照)。命の綱紐を亀甲や総角(あげまき)の形に結んだ結び玉。代表的な名前は「光子」や「初子」だが、その他にもいくつか代表的な結び玉を見つけることができる。 たとえば「徳太郎」ならば、尾崎紅葉(本名徳太郎)、永見徳太郎、菊原琴治(本名布原徳太郎)らがいる。『細雪』や『夢の浮橋』では「おかね」さんが活躍するが、川田順の母、無想庵の養母がおかねさんだ。発表の時に配布した系図の、糺のわかりやすいモデルの周辺にも「周子(かねこ)」さんがいる。他の結び玉としては、「貞愛」「いえやす」「えつこ」「さちこ」「きみこ」「ちよこ」「せい」「とみこ」「しげこ」等が浮かぶ。
谷崎が、池長孟氏が淀川長治氏の姉である富子さんと暮らそうと建てた豪邸に、新妻を連れて行くと手紙に書いたのも、名前が同じで異なる人物をつなげる操作なのだろう。
後で改めて系図を眺めてみたところ、一条忠香という人物に目が留まった。その養女に千代という人がいる。この人は、徳川慶喜に輿入れするはずだったが、疱瘡だか天然痘だかになってしまい辞退した。この悲劇については、蜂須賀年子著『大名華族』の冒頭に書かれていた。『春琴抄』との関連が強くうかがわれるお話だが、自伝の執筆にあたっては、川田順が勧めたと思われる。蜂須賀年子さんは、蜂須賀正韶と、慶喜の娘である筆子さんとの間に生まれた。やはり慶喜の娘である「葵の女」国子さんが川田順に会いに来るときに、姪であるこの人を連れてきたりしている。年子さんは、渡辺 明さんの兄である津山松平家の康春さんに嫁ぎ、その後離婚した。つまり、松子夫人の妹である重子さんとは一時(だいたい2年間くらいか)義理の姉妹だった。
その他にも、鷗外と賀古鶴所と佐佐木信綱が親しかったこと、鷗外の『舞姫』が徳富蘇峰(姉に初子さんや光子さんがいる。光子さんの夫は河田氏。)の『国民之友』誌上に発表されたこと。蘇峰と同じく出身地が熊本の小中村清矩の女婿だった池辺義象について、鷗外が『高瀬舟縁起』で触れていることを知り、明治の文豪たちが、ある一つのつながりに集約していくのではないかという仮説が浮かんできた。これらのつながりについては、本居宣長の『古事記伝』や小中村清矩らが編纂に携わった『古事類苑』、折口信夫作品等も読みながら、今後も継続して調べていきたいと思っている。拙い発表と同様、またしても雑多に並べてしまったが、ここに挙げた何かが少しでもお役に立ち、発表の機会を与えてくださった皆様に対するお礼になればありがたいと思っている。【木龍美代子】




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※谷崎潤一郎に関するご著書・ご論文等を刊行・発表された方は、研究会会員内外を問わず、情報をお寄せください。ご論文については150-300字程度の[要旨]をお送りいただけるとありがたく存じます。
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